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中文翻訳編集:黄淑菁
英文翻訳:白須康子 英文翻訳:伊藤菜月妓 英文翻訳:坂元一枝 (2010.4月起) |
戦後民主主義が嫌うもの 「泣いた赤鬼」でも同じです。自分が悪者になっても友人の気持ちを大切にするという 「相手を思んばかる心」・・・ただ、ここでもう一つ描かれている重要な表現は、 「村人の意識の低さ」です。してもらうばかりで、自分からは何一つしない意識の低さ。 日本人の「ぶるさがり根性」をよく表していると思います。 自分からはなにひとつしないで、「何かしてくれ!何かしてくれ!」と ばかり言う根性が「ぶるさがり」。そのくせ、異質なものを排除していく残酷さ。 小川未明の「赤い蝋燭と人魚」を読んでみてください。 そんな村人たちの残酷さがおどろくほど克明に描かれています。 そして、その結果の「おどろおどろしい恨みの末」の結末も・・・・。 廣介や未明が描く村人=日本の大衆・・・これが、戦後の民主主義にとっては おもしろくないものだったのではないでしょうか。 おそらく、60年安保に続く進歩主義的な動きだったと思うのですが、 未明や廣介の作品の底流に流れる一般大衆の描き方に違和感を持ったのが、 「民主主義」を標榜していた進歩的あるいは左翼的な人たちだったのでは ないかと思われます。鳥越信さんや古田足日さんが「(未明や廣介の作品は) 未来への展望がない!」と一蹴した「少年文学宣言」は有名ですが、 「浜田や小川の一般大衆を無視したり貶める表現など許せぬ!」というのが 戦後の児童文学運動の中で支配的だったことは事実でしょう。 戦後は「大衆」の時代だからです。しかし、その戦後民主主義が個人の自由を 無制限に拡大し、結果、人間関係の分断やモラル・ハザードを引き起こしている ことは現代を見ればあきらかです。 なるほど、廣介や未明が描いていたのは、江戸時代から続く儒教的な感情や 気持ちの表現にあったわけで、二人は、それが現代(明治から昭和)に必要だと 思ったからこそ書いたのだと思います。しかし、進歩主義的な作家たちには、 この表現は古臭い倫理観の表現と映り、時代錯誤に見えてしまいました。 「これからは民主主義の時代で一般大衆が主役なのに、廣介や未明が描く村人や 大衆は相変わらずムラ意識の、拙劣な人々でしかない・・」と思ったことでしょう。 それは、まさにあの学生運動が伝統や歴史をすべて打ち壊そうとした勢いに似ていました。
by cinniyan
| 2013-08-07 06:30
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