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中文翻訳編集:黄淑菁
英文翻訳:白須康子 英文翻訳:伊藤菜月妓 英文翻訳:坂元一枝 (2010.4月起) |
私は長い事、日本デザインセンターで永井一正先生のもとで、
グラフィックデザイナーの仕事をして来たので、多くのクライアントの お仕事をし、多くの企業の方に出会って来た。 そんな中でも、心に刻まれるような素敵な人々との出会いもある。 それが、石井食品の石井トヨ子さんだ。 現在の石井食品の会長、石井健太郎氏のお母様にあたる。 トヨ子さんとは、私が独立した後に、イラストの仕事で打ち合わせなどに 伺った時などにお会いすることになった。 当時、石井健太郎社長の時代で、会社に打ち合わせに行き、何かの機会に その当時まだ、会社でいらしたトヨ子さんにお会いすることになった。 数回、お目にかかる機会があったのだが、いつも横に座らせてくださり、 石井食品の会社がどうやって作られていったのか?、ご自分の信念など 細かにお話してくださった。 その時のオーラというか、素晴らしい笑顔と包容力を兼ね備えた方で、 優しさの中に芯の通ったまなざし、穏やかなそれは明るい笑い声が、 今でも思い出される。 その時に、1945年に創業され、佃煮、煮豆の製造から始めたとおっしゃるが、 中でも印象深かったのが、「イシイのミートボールやハンバーグ」で有名な、 レトルト食品の先駆けだったわけだが、その特許を自社だけのものにしなかった お話だ。 もし、企業が自分だけのところのものに特許取得してしまったら、社会に レトルトが広がらない。 その後、丸大など他者も同じようにレトルトの食品を製造し、日本中の 子どもたちのお弁当にイシイのミートボールや ハンバーグは広がっていったというお話だった。 その頃のお話を丁寧にしてくださり、食品に対する真摯な思いや情熱を知り、 感動したものだ。 やはり、無から何かを新しく作り出すということは、本当に尊く、 情熱と愛情がいることを痛感した。 海外で、工場の汚染の勉強などもした石井健太郎会長は、日本で初めて 二重バーコードを商品につけ、原材料の産地や加工地、加工日も表示している。 20数年前からは、製造過程においてうま味調味料や食品添加物を 使わない無添加調理に取組まれたり、アレルギーの子どもたちに向けた 商品作りのための工場も作られた。 こうした姿勢を見ていると、いつでも消費者の側にたった姿勢を感じ、 会長の石井健太郎氏は、トヨ子さんの意志を、しっかりと受け継がれて こられたことを思う。 さて、今頃だが、実はそのトヨ子さんが、96歳にて亡くなられた。 その訃報に悲しく、一度お見舞いにいってお会いしたかったと、悔やまれた。 船橋の石井の本社、ヴィリジアンで先日、忍会が開かれとても優しい空気の 中、執り行われ私も伺った。 上の階に、今までの歴史を振り返る場所が作られていて、トヨ子さんが 生前に着られていたお召しものやお写真などに溢れていた。 元社員の方たちだろうか、私が部屋でお写真などを見ていると、3人の人々の 会話が飛び込んで来た。 「本当に素晴らしい人だったよね、社員のことを、一番に考えてくれる人だった」 というような会話が聞こえて来た。 「これだ!」と私は思った。社員のことを一番に考えてくれた。それは、社員の 人生の幸福を願い、職場も家庭においても社員の充実した時間を願われていたのだろう。 額に入ったトヨ子さんの言葉や、ノートに、 その信念が書かれていて、とても感銘を受けたので、ご紹介したい。 ******************** わたしには、わたしの道があります。 わたしには、私の夢があります。 わたしには、わたしの人生があります。 あせらず無理をせず、 ひとつ ひとつ やりとげていきます。 必ず力ある 優しさある人になります。 悔いない素晴らしい青春を友情をつくって下さい。 ******************** 私は、「わたしには、わたしの〜」 とくり返されたこの言葉に、人間として一人一人立つということの 大事さや、背筋を伸ばして元気に前を向いて生きろ!と、叱咤激励されている気がした。 私のようなものにも、親しく声をかけてくださり、なにしろ愛情のこもった まなざしに何かいつも勇気をいただいた。 お写真のように、本当にパッと、周囲を明るくさせて元気づけてくださったトヨ子さん。 とても、大好きだった。 石井トヨ子さん、本当に、ありがとうございました。 また、天国に行ってもいろいろとお導きをお願いいたします。
by cinniyan
| 2018-06-29 08:15
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